埼玉県内には鎌倉殿ゆかりの人物の残した足跡が多く点在しています。
第1回は源義仲の子、清水冠者義高こと源義高ゆかりの地をご紹介します。
◇清水冠者義高と埼玉県の繋がり
源義高は11歳のときに、源頼朝の元へ人質として送られ鎌倉で頼朝と北条政子の子、大姫の婿として1年を過ごしました。しかし、父・義仲が頼朝に討たれたことで、頼朝を父の敵と思っていると疑われ、頼朝は義高殺害を部下にほのめかします。
これを聞いた大姫の助けで、義高は屋敷から脱出し逃走しますが、追っ手に見つかり、「入間河原」で打ち取られてしまいました。埼玉県狭山市には義高が追手から身を隠したと言い伝えられている影隠地蔵、そして、義高が討たれたとされる入間川沿いには、義高を祭る清水八幡があります。
◇清水八幡
入間河原で討たれた義高を哀れんだ入間川の里人がその遺骸を埋めて墓を築いたとされています。
この話を聞いた北条政子が、墓を清水八幡とし、入間河原の近隣鎮護の神として祭られるようになったと伝えられています。
今の本殿は昭和34年(1959)に再建されたものですが、中には永享2年(1430)の石祠が安置されています。これは江戸末期に近くを流れる赤間川から掘り出されたもので、そこには義高が入間川で殺害されたことなどが刻まれています。
【所在地】
埼玉県狭山市入間川3丁目35-9
狭山市駅から約21分
◇影隠地蔵
影隠地蔵は、入間川に架かる新富士見橋を渡って1kmほど先の奥州道交差点に面して立っており、頼朝からの追手をやり過ごすため、義高が一時的に地蔵の背後にその姿を隠したと言われています。
昔は鬱蒼とした篠竹の藪の中に地藏堂があり、その中に木像が安置されていたと伝えられています。
明治4年(1874)年に石の地蔵となり、現在も石の地蔵が残されています。
【所在地】
埼玉県狭山市柏原204-1
狭山市駅から徒歩約35分
◇入間川
義高は頼朝の追手から逃れようとしましたが、入間河原で捕まり討たれたとされています。
毎年5月になると源義高鯉のぼりの会の皆様により、義高の供養と子どもたちの健康、成長を祈念したたくさんの鯉のぼりが入間川を彩ります。
また、河川敷沿いには花壇が整備されており、季節により色とりどりの花を楽しむことができます。